革新県政の会・革新市政の会

革新市政の会とは

1981年1月、本山革新市政3期目をめざすたたかいの中で、「革新市政の会」(革新市政を守り発展させる会)が結成されました。結成に至る経過や革新市政のもとでの要求実現のたたかい等については別記をご覧ください。

1985年の市長選挙以降、革新市政の会は、市民の命と暮らし最優先の「市民本位の市政」の実現をめざして、市民の要求を軸に、市民との共同の運動を進めながら、候補者を擁立してたたかいました。

特徴的なたたかいとして、自民党政権が消費税を導入した直後の1989年選挙では、市民の怒りが爆発し、弁護士の竹内平候補が自・社・公・民連合の現職を相手に43.8%の得票と肉薄しました。2017年選挙では、幅広い共闘についても模索する中で、独自候補は擁立せず、元名古屋市副市長の岩城正光氏(新しい名古屋を共につくる会)を全力で自主的に支援したたかいました。

「革新市政の会」は、敬老パスを守る発展させる運動、豊かな学校給食を求める運動、名古屋の国保と高齢者医療を良くする運動など、広範な市民運動と連携して、市民本位の市政実現にむけて活動しています。その取り組みの成果は、現在の名古屋市政にも大きく生かされています。

「革新市政の会」には、愛労連などの労働団体や、愛知県商工団体連合会、新日本婦人の会愛知県本部、医療・福祉や平和などさまざまな分野で活動する市民団体が参加しています。名古屋市内の全行政区につくられた「会」の地域組織、個人も参加しています。政党では日本共産党が参加しています。

<別記 参考>

― 革新市政の実現 ―

1973年春、名古屋市民の熱い願いに応えて、本山正雄さんが名古屋大学教育学部長の要職をなげうって名古屋市長選挙に立候補して現職を破り、本山革新市政が誕生しました。選挙戦とその後の本山市政を支える中心となったのは、当時の愛労評(愛知県労働組合評議会)、日本社会党、日本共産党、学者・文化人の会の4者共闘でした。

本山市政は1985年春までの3期12年に及びましたが、「憲法を暮らしの中へ」のスローガンを高く掲げて、“陽の当たらないところに光を”と、福祉・教育を充実させる施策が大きく前進しました。本山市政の1期目だけでも、就任早々の1973年9月から敬老パスの支給をはじめ、1年でプレハブ教室の一掃、2歳児までの乳幼児医療助成制度、市立保育園の34カ所新設、全国で初の私学助成制度など市民の切実な要求を実現しました。名古屋市は“福祉・教育日本一”と言われるまでになり、全国の自治体での福祉施策充実を大きく励ましました。とくに敬老パスは、その後有料化されましたが今日まで継続され、名古屋市民が“全国に誇る宝”の役割を果たしています。

― 革新市政を守り発展させるたたかい ―

国政レベルで、1980年1月に日本社会党が公明党との間に結んだ日本共産党排除の社公政権合意をきっかけに、日本共産党排除の政治体制がつくられました。その流れは名古屋市政にも襲いかかりました。1980年の暮れから81年にかけて、自民・社会・民社・公明の4党体制がつくられ、「共産党の支援を受けないこと」を条件に本山支持に転換して市長に迫り、本山市長も共産党排除を了解したのです。

1981年1月28日、それまで本山市政を支えてきた多くの団体が9000人の市民大集会を開き、「本山市長の誤った態度を改めさせ革新市政を守り発展させる署名活動」を行うことを決議し、その場で日本共産党も参加する「革新市政の会」を結成しました。署名はわずか2カ月足らずで43万を集めて本山市長の心を動かし、革新市政の会と本山市長との間で政策協定の調印が行われました。本山市政の3期目は自民党から日本共産党までのオール与党体制となりましたが、本山市長は革新市政の会との協定を誠実に守り、市民本位の政策を実行しました。